清潔で、とても明るいところ

音楽は要らない。音楽はまるで必要ない。こんな時間にあいてるのは酒場くらいのものだが、しゃんとした物腰でその前に立つのも無理な話だ。自分は何を恐れているのだろう?いや、不安とか恐怖が自分をむしばんでいるのではない。俺にとりついているのはよく知っている"無(ナダ)"というやつだ。この世はすべて"無(ナダ)"であって人間もまた"無(ナダ)"なんだ。要するにそれだけのことだから、光、がありさえすればいい。それに、ある種の清潔さと秩序が。"無(ナダ)"のなかで生きながらそれと気付かないものもいるが、おれは気付いている。そう、すべては無、かつ無にして無、かつ無なのだと。無にましますわれらの無よ、願わくは御名の無ならんことを、御国の無ならんことを、御心の無におけるがごとく、無において無ならんことを。われらにこの無を、われらが日常の無を与えたまえ、われらが無を無するごとく、われらの無を無にさせたまえ。われらを無の中に無にすることなく、無より救いたまえ。かくして無。無に満てる無を祝福したまえ、無はなんじのものなればなり。彼は微笑して、ピカピカのエスプレッソマシンのある酒場のカウンターの前に立った。
「何します?」バーテンが訊いた。
「無(ナダ)」

アーネスト・ヘミングウェイ "a clean,well-lighted place"